風が、吹いた。 サァァ…と音をたてて波のように丈の長い草が流れていく。 遥か遠くに大陸一美しいと言われる町並みが見える。東側には森が続いていた。あの森を抜ければ険しい山脈が待ち受けているはずだ。 西に視線を移せば白い点がいくつも見える。山羊使いが家畜に餌を食べさしているのだろう。 「…外にでるのは久しぶりじゃのう。風が気持ちいいわい」 「50年前の借りを返しにきました」 抜けるような青空と緑の絨緞は黒衣の彼には酷く不釣合いで、英雄は笑った。 彼が太陽を嫌っていたことを思いだす。夜を愛した魔術師は、夜に愛される男でもあった。 「律儀なことじゃ。借りなんぞ、ワシのほうが多いというのに」 「それは貴方の子孫からコツコツと取り立てますから安心してください」 「むむむ。子孫か。たしかに、息子と孫の代では返せそうにない量じゃ。いっそのこと50年前の借りでチャラにしてくれんか?」 腕を組み唸るとチャラにするにしては余りにも釣り合いの取れない提案をした。もちろん、英雄のほうが返さなければいけない借りは多い。 その提案を魔術師は一蹴した。 「嫌です。もったいない。私の貴方の子孫を苛めて遊ぶという老後の楽しみを奪わないで下さい」 自分の子孫の行く末が心配になってきた。英雄は青い空を見上げると子孫達の無事を祈る。ついでに応援もした。 「……ワシの息子達よ。頑張るんじゃよぉー」 声に力は無く諦めきった感がある。そんな英雄を無視して、さっさと太陽から逃げたい魔術師は話を急かす。 「さあ、サクサク最後の遺言でも何でもいいから、望みを言ってください」 うーむと目を閉じて考え込みながら、久々に感じる世界を英雄は味わっていた。風が白髪を攫っていくのが心地いい。 「そうさのう。…せっかくじゃから、デカイ願いでも言うとするか」 ゆっくりと瞼を上げて、50年前から少しも変わらない魔術師を真っ直ぐと見た。 「…100年間、この国にお主の力を貸してやってほしい」 意外な願いに魔術師は目を見開く。この国が魔術師の力を必要としているようには見えない。魔術師一人の力が国の安寧に繋がるとも思えず首を傾げた。 「魔術師の力をですか?」 「違う。お主の力をじゃ」 その答えに願いの意味が解り笑みがもれた。彼は随分と懐が広くなったようだ。否、50年前の彼でも同じことを言ったか。 魔術師の命が何時まで続くのかは判らなかった。50年前から、病も怪我も老いも全て彼を通り過ぎていく。今の様子からすると、あと軽く100年は生きるだろう。かつての旅の仲間達は英雄を最後に全員、常世へと旅立ってしまった。 もはや魔術師を知る人は数少なく、帰るべき場所も魔術師の居場所もなくなる筈だった。 この国に訪れる理由も彼の子孫から借りを取り立てることしかない。 「…貴方のお人よしは変わらないのですね 魔術師の視界が歪む。気を抜けば要らぬ醜態を見せそうで、急いで魔力の拘束受けた契約の言葉を口にする。 「いいでしょう。“これより100年の時、英雄の国に我が力を貸し与えることをここに契約する”」 魔術師を中心に風が渦を巻く。 あまりの強さに英雄は手で顔を庇い、強く目を瞑る。 自分の周りにも風が吹くのが判った。 気づけば英雄はベッドの上に戻っていた。魔術師の姿は無い。 体が鉛のように重く、酷く眠かった。 「英雄殿!?」 周囲の呼びかけが遠く聞こえて、自分と世界が隔たっていくのを感じた。 急にざわめきが消える。一人の男の声だけが部屋に響いた。 「父上! 父上!!」 「…遅いぞ、馬鹿息子め……」 慌てて来たのだろう。英雄の息子の髪は乱れ、頭上の王冠は斜めに傾いていた。 先日譲位したばかりで、まだまだ様にならないその姿に苦笑がもれる。 頼りない息子だが、きっと父親の親友を受け入れてくれるだろう。 視界が翳む。満ち足りた気分で常世へと旅立てる自分は幸せだ。 「…ワシの人生、最後まで楽しかったわい…悔いは…な……」 英雄は永遠の眠りについた。 多くの人に惜しまれての死だった。 英雄は多くの地に逸話を残している。 そのどれもが生き生きと語られ、他国の英雄談とは一線を画するものだった。 子どもが母親にねだる冒険談は必ずと言っていいほど英雄とその仲間たちの話である。 ただ、何故か吟遊詩人の英雄談には登場するにも関わらず、逸話の大半に魔術師は登場しなかった。 しかし、国の歴史書には多くの魔術師の記述がある。 100年の歴史の中に時折姿を現す魔術師が全て同じ人物だとは、誰も知らない真実だった。 |