目の前が赤く染まったような気がした。

 足首がズキン、ズキンと脈打ち、耐え難いほどの激痛がそこから全身に広がるようだ。
 無数の視線が私を観ているはずだった。痛みに気が遠くなって、感覚はなかったけれど、ただ思った。

 お客さんが観てる。踊らなければ。これは、あの人に捧げる最後の踊りでもあるのだから。



 私は踊り子だった。

 町から町へと転々とする旅芸人の一座の一人。
 今は亡き母から教わった踊りは生活の糧でもあったが、同時に私の人生そのものとも言っていい。

 踊れない私なんて私じゃない。
 そう、思っていた。

 今では歩くことさえままならないけれど。
 踊り子なんて所詮は娼婦と同じだ。私にとっての踊りは本物だけど、踊りが終わってしまえば、男たちに求められるがままに夜を共にしなければならない。
 金持ち男たちが大枚払って私に言うのだ。

「私の寝所で踊れ」

 と、笑える。そんなものの、何が踊りか。
 だから油断したのだ。

 その男は結婚を控えた貴族だった。

 彼は私を買わなかった。
 広場で踊れば、賞賛とともにおひねりを集めるピエロが持つ帽子に金貨を投げ入れた。
 毎日、毎日、彼は広場に来て私の踊りを観ていった。
 そして、金持ち男たちが私を連れて行く姿も見ていた。
 ふと振り向いた時に見てしまった、彼の悲しげな顔を馬鹿な私は未だに忘れられないのだ。


 私と彼の指先が触れる程度の僅かな接触。

 私を見る彼の視線がじりじりと肌を焼く。私は全身で彼を意識しながら踊る。
 まるで小娘の恋愛。
 目が彼を追い、視線が合えば逃げる。踊りを見終わった彼が去れば寂しくて、踊りを始める前に観客の中にいる彼を見つければ、嬉しくて嬉しくて嬉しくて。

 彼が私を屋敷に呼んでくれた時は、人生で一番嬉しかった。
 馬鹿みたいな夢も見た。

 といっても、実際に行ったら私なんかが屋敷に入ってもいいのだろうかと、怖気づいたけど。

 彼とは何もなかった。もちろん、お金のやりとりもしていない。
 彼が呼んで、私が行った。
 男と女のやりとりにお金なんていらないでしょう?

 私は彼の寝所で母の思い出を話しながら母から教わった踊りを踊って、今までの旅であった出来事を面白おかしく話した。
 彼はそれに大笑いして、色んなことを喋った。

 そして、軽く触れるような幼子のような接吻をした。



 真夜中に屋敷を出た。空には美しい満月が出ていて、私は泣いた。
 彼は10日後が結婚式。
 私は屋敷を出る前に彼と一つだけ約束をしていた。

「あなたの結婚式の前日に私の人生最高の踊りをあなたのために踊るから、半刻だけいいから私のために時間をちょうだい」

 彼が頷いてくれたから、私は毎日毎日一生懸命練習をした。
 私たちのやり取りを屋敷の女中が聞いて、彼の婚約者に密告したなんて知らずに。
 婚約者も私と同じように彼を愛していたのね。

 私は最初から手に入らないものと諦めていたけれど。

 彼と約束した前日に私は一座の仲間にナイフを向けられた。
 貧乏人は大金の前では無力よ。せめてものお情けにと足だけを傷つけられた。
 後の結果をしっていれば、殺してくれと私はきっと叫んでいただろう。
 それでも私は当日踊った。

 彼が来てくれると信じて。足からは血が流れて、舞台は赤く染まった。自分の血に滑って、とても踊りと言えた品物ではなかったけど。
 一座の皆は私を止めた。

 彼らを振り払いたかったけど、そんな力はもう私にはなかった。



 私の足を治療した医者を哀れむように私を見た。

 馬鹿な私。
 感情的になって、愛したもの全てをなくした。
 一座は私に少しのお金を残して、次の町に行った。
 

「どうやって生きていったらいいんでしょうか」

 私の足を治療している医者の手が止まった。
 医者がこの問いに対しての答えを持ち合わせていないことは重々承知だが、私だって途方にくれているのだ。

 視界が真っ黒になるほどの絶望緒と悲しみはすでに去った。

 残ったのは思うように動かない足と、僅かなお金。
 治療費は一座が医者に前払いをしていってくれた。といっても、一座の仲間の一人がお金に目が眩んで私の足を傷つけたことの報酬だけど。
 皮肉なものだ。思わず笑ってしまう。

 けれども、治療が終わった後に残る選択肢は、死ぬか、色町の下層で泥を啜りながら体を売るかしかない。
 せっかくの治療もあまり意味を成さなかったかもしれない。

 せめて綺麗に死にたい。


「一生眠れるような薬を処方してくれませんか?」

 医者は一瞬呼吸をとめた。そして、細く吐き出す。

「…足の怪我には痛み止めしか処方せん」
「では、心の痛み止めを下さいな」

 痛ましそうに私を見る。ほしいのはそんな視線じゃない。
 お客さんの視線がほしい。彼の視線がほしい。
 彼に恋をしなければ、両方を失うことはなかったのに。馬鹿な私。
 人を信用しないって決めてたのに、彼の素直な言葉に油断して、恋をしてしまった。
 全てを失っても、彼に出会わなかったらよかったのに…なんて、思えない馬鹿な私。
 だって、本当に幸せだったんだ。私の人生、踊り以外にあんな華やいだことなかった。
 何も言わずに涙を流す私を医者がそっと寝台に横たえた。

 今は素直に従おう。辛いことも眠れば遠くに去ってくれる。


 次に目を覚ました時、私の手を握って眠る彼が居た。
 無精ひげが生えて、随分とやつれた姿。
 また、涙がでた。これは、幸せな夢? 私はまだ夢を見ているのだろうか。
 彼もまた目を覚ました。私の手を両手で強く握ると、私をじっと見ていった。

「宣誓から逃げた私は貴族ではなくなってしまった。何も持たないただの男。それでも君を愛してる」
「踊れなくなった私は踊り子ではなくなってしまいました。足の不自由なただの女。それでもあなたを愛してる」

 そっと幼子のような接吻をした。
 


 視界の隅に扉の隙間から私たちを見守る老医の優しい微笑があった。






モドル