それは海と友人になってから、暫く経った日曜日に起こった。 自分のベッドで祐樹が本を読んでいた時、階下から言い争う声が聞こえてきた。 海と陸の声だ。何事かと階下へ降りると、階段を降りたすぐ横にある和室の障子が破れているのが見えた。 破れた障子からは海の背中が見える。彼がぶつかったために障子は破れたのだろう。 祐樹が立っている階段からは見えなかったが、和室の中には陸と彼らの母親もいるようで、泣き声と二人を叱る声が聞こえた。 「二人とも何やってるの! 危ないでしょうッ」 「だってぇ…海ちゃんがぁ…海…ちゃん…がぁー」 陸が泣きながら、母親に何かを訴える声が聞こえる。 障子の影が呻きながら立ち上がった。 「ごめん、お母さん。今のはオレが悪いんだ」 海の声は酷く落ち込んでいた。しきりに「ごめん」と謝っている。 その様子に彼らの母親がため息を吐いたのが、階段にいてもわかった。 「大体わかったわ。海、人の物を奪うことが悪いことだって分かる? あなたの今の様子なら、大好きなヌイグルミを取られて陸が悲しい思いをしたこともわかっているわね?」 海が「…うん」と小さく呟くのが聞こえる。 「陸、あなたが突き飛ばしたお兄ちゃんが、とても痛い思いをしてるってわかる? 手がちぎれるてしまったクマさんもとても痛かっただろうけど、突き飛ばされたお兄ちゃんもとっても痛かったはずよ」 涙まじりに「うん」と陸の声が続いた。 「二人とも、もうしないってお母さんに約束してくれるかしら」 「約束する」 「する」 問題がうまく収まったことが、それで分かった。 祐樹は居た堪れなくて、自分の与えられた部屋に戻る。 この家族は、あまりにも自分と違いすぎた。自分は兄弟がいないから、喧嘩することもなかった。母親に叱られらことも優しくされたこともない。 自分はあの古くて寂しい家で、祖父と暮らしていたのだ。祖父は無口で厳しかった。 優しくされたことなんて記憶に無い。 愛情に溢れた家族が自分には無くて、自分は永遠にその中には入ることはできないのだ。 そう感じると胸が痛くて、今すぐに家を出て行きたいと思った。 ここに自分の居場所はない。 次の日、祐樹は学校が終った後に家に帰らなかった。 一緒に帰るようになっていた海から逃げるように、早めに学校を出ると少し離れた市立図書館に行って時間を潰した。 外が暗くなり図書館が閉館の時間になると、今度は公園に行く。 電灯が弱い光で公園を照らしているだけで、人気は全くない。 いくつかある遊具の内の一つであるゾウの形をしたすべり台の下に隠れると、膝を抱えて蹲った。 「…これからどうしようかな」 小さく呟くと涙が出そうになった。自分には帰る家なんてないのだ。 あの暖かい家庭は自分の家族ではない。 家族じゃない自分が居なくなっても誰も気づかないだろう。もしかしたら、仲良くなった海だけは気づいてくれるかもしれない。 それでも、自分は誰にも必要とされてない子どもだ。海には大勢の友達がいるから、自分ひとりぐらい居なくなっても、すぐ代わりは見つかる。 陸は元々、自分を警戒して近づかなかったし、自分の養い親となった人たちは、厄介な子どもが居なくなって清々してるはずだ。 世界の中で自分は一人ぼっち。 自分を守るように蹲っていた祐樹に懐中電灯のライトが照らされた。 「いた! 祐樹くん居ましたー!」 若い男性の声が遠くにいる人に向かって叫んだ。自分に向けられた光の眩しさに祐樹は目を擦りながら、なるべく光を寄せ付けないように目を細めて相手をみた。 いきなりの出来事に、祐樹の体は緊張して強張ってる。 そんな彼に男は優しく聞いた。 「祐樹くん…だね? お母さん達が心配してるよ。おじさんと一緒に帰ろう?」 目が慣れて男が見えてくると、彼が警官の制服を着てるのがわかった。 養父母が警察に連絡したのだろうか。 よく見れば警官の後ろの方にも懐中電灯のライトがいくつか見えて、大勢の人が自分を探していたのがわかる。色んな人に迷惑をかけたのがわかって、差し伸ばされた手を拒めなかった。 こんなにも色んな人に迷惑をかけてしまった自分は、怒られて「出て行け」って言われるに決まってる。 最初に来たときのように手を引かれて、祐樹の新しい家に連れていかれる。 あの時以上に心が重かった。 初めて来たときのように手を引かれて玄関に入った。 ただ違うのは、あの時リビングで祐樹を待っていた面々が、玄関で待っていたことだ。 祐樹はこれから「出て行け」と言われる事を想像すると、顔を上げることができなかった。 養母が自分の前に立ったことが気配でわかる。鋭い音を発てて祐樹の頬が張られた。 じんじんとした痛みを自覚する頃には、祐樹は養母の腕の中にいた。 冷えた体に暖かさがじわじわと伝わる。 「…心配したのよ!」 そう言った彼女の声が震えていた。ぎゅっと強く抱きしめられているのを感じると、祐樹の目からぽろりと一粒涙がこぼれた。 それを境に今まで我慢していたものが、次から次へと流れ出す。 「ふぇ…」 その姿を見て幼い陸が泣き出した。 母親と祐樹のもとへ駆け寄ると小さな腕を広げて二人に抱きつく。 増えた温もりがおかしくて、祐樹は涙混じりに笑いながら問いかけた。 「なんで陸まで泣き出すの」 「だってぇ、お兄ちゃんが…ゆうちゃんが泣いてるんだもん」 初めて“お兄ちゃん”と呼ばれて、また涙が頬を伝うのがわかった。 「お、オレだって心配したんだからなッ」 玄関に立ったままだった海が、目尻に涙を溜めて強い語調で祐樹に言った。 家族全員が涙を流してる光景に、祐樹を送ってきた若い警官までもが貰い泣きして、一時収集のつかない状況となる。 警官が帰るのと入れ替わるように、息を荒くして駅から走って養父が帰ってくると、祐樹は思い切り拳骨をくらい、一時間に及ぶ説教を受けた。 頭はずきずきと痛かったが、胸の痛みともやもやがすっかりと消えている。 祐樹は祖父が亡くなってから初めて、自分の足が地面を立っているような気がした。 翌日の朝。祐樹は兄弟の誰よりも早く目が覚めた。 階下へ降りてキッチンへ行くと、朝食を食べてる二人に挨拶する。 「母さん、父さん、おはよう」 目玉焼きとサラダを箸で突付いていた二人の手が止まった。 目を見開いて祐樹を見る。 そして、二人は微笑んだ。 「お早う、祐樹」 祐樹は五人家族。 兄弟三人喧嘩して、父と母に叱られる毎日だけど、とても仲がいい。 |