ずっと一緒だった祖父が死んだ。

 厳格な祖父と二人で暮らした古びた家。喪服姿の大勢の人々が去ると、祐樹は一人の男性に連れられて長年暮らしたその家を出た。

 どれほどの時間を車に揺られただろうか。

 住宅街の中にある洒落た家、そこが男性の自宅だった。

「今日から、ここが祐樹君の家だ」

 彼は祐樹に向かって穏やかに微笑んだ。



 優しく手を引かれて連れて行かれたその家のリビングには、男性と二人で何度か祐樹に会いにきた女性と、その人の子どもと思われる祐樹と同じ年ぐらいの少年と幼い少女が待っていた。

 男性はその兄妹の前に祐樹を立たせる。すると警戒してか、少女の方は母親の後ろに隠れてしまった。


「今日から海と陸のお兄ちゃんになる祐樹君だよ。仲良くするんだぞ。さあ、二人とも自己紹介するんだ」


 促されて始めに自己紹介したのは兄の方だった。

「オレは海って言うんだ。ヨロシクな」

 日によく焼けた顔が人懐っこく笑う。最初から祐樹が来ることは説明されていたのだろう。新しい兄弟に驚いた様子も抵抗する様子もなかった。

 そんな彼に祐樹は曖昧に笑うことしかできない。

 妹の方が母親に背を押されて顔を見せる。小さな手はしっかりと母親のエプロンを握っていた。オドオドとしながら、上目遣いでこちらを見て小さく言う。

「…りくっていうの」

 少女を貼り付けた女性が二人の自己紹介を補足した。

「海は祐樹君の一つ下、陸は五つ下よ」

 今までとあまりに違う生活環境に、祐樹は馴染める自身がなかった。
 足元の見えない場所に立っているようで、酷く居心地が悪い。

 その日から、重くもやもやとしたものが、祐樹の心に住み着いた。



 祖父と暮らした家を離れ、学校を転校して一週間が経った。

 相変わらず祐樹は自分の体が地面に立っている気がしない。

 新しい祐樹の部屋は、学年が一つ下の海と一緒の部屋だった。まだ幼い陸は、彼女の父母と同じ部屋で寝起きしているらしい。

 祐樹と海の部屋にはベッドと勉強机が二つずつ。その一つのベッドで寝転がりながら、何か作業していた海が突如叫んだ。

「わっかんねぇー!!」

 その大声に勉強机に向かっていた祐樹がビクッと震える。机に広げた教科書に集中していただけに驚きは大きく、胸がドキドキしていた。

「ど…どうしたの?」

 祐樹が少し椅子を回転させて振り返ると、海がちょうど縦長の冊子を床に放り投げるところだった。軽い音を発てて床に落ちた冊子は背表紙に小さく『算数ドリル』と書いてある。

「宿題の算数ドリルがさっぱり解けねーのッ! 今度こそ出さねーと、体育館のクソ汚いトイレそうじが待ってるんだよ。いーやーだー!」

 うがー! と叫びながら、バタバタと手足を動かした後、海はベッドの上を転げ回る。

 よっぱどトイレ掃除が嫌なのか、散々暴れた後に嫌そうにベッドの上から床へと腹ばいになって前進しながら、放り投げたドリルを取りに行く。


 その様子に祐樹の口から思わず言葉が飛び出した。

「…ぼくで良ければ教えようか?」
「マジで!? おしえて、おしえて!」

 現金にもガバッと勢いよく起き上がると、海がドリル片手に走りよってくる。
 祐樹が少し横に椅子を移動して出来た空間に、自分の椅子を持ってきて海が座った。

 机に広げた海のドリルは、どれもこれも祐樹にとっては簡単な問題ばかりだったが、なるべく分かり易いように丁寧に教えていく。


 一時間もすれば海の宿題に出された算数ドリルは全て終った。

 その瞬間、海は机に突っ伏した。

「終ったぁ〜……」

 疲れた様子がありありと分かる声音で呟くと、顔を横に向けて海は祐樹を見た。

「ユウキの教え方、すっげーわかりやすかった! これで、ジゴクのトイレそうじやらなくてすむわ。さんきゅーな!」

 にかっと歯を見せて笑う海に、祐樹はずっと胸の中にあったもやもやが少し晴れた気がした。

「どういたしまして」
「今度の休み、いっしょにサッカーやろうぜ! オレ、サッカー得意だから、今日の代わりに教えてやるよ!」

 海の誘いが嬉しくて、知らず知らずのうちに祐樹は笑って頷いていた。
 その日から、二人はよく一緒に宿題をやったり、遊んだりした。

 けれども、相変わらず自分を養子に迎えた人たちを親とは思えなかったし、陸とも親しくできないままだった。


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